AIは電気羊の夢を見るか?
- Masaru KUROSE
- 2024年8月30日
- 読了時間: 3分
あるカタログに掲載した私の絵画について述べた文章があって、最近になって読み返してみるとその中に改めて興味深く再認識する箇所がありました。とりあえず話を進めるためにまずはその文章をここに転載します。私の簡単な絵画論でもありますのでそれも含めてお付き合いいただければ幸いです。
絵画は一見多くの制度的な拘束に縛られているように見えても、逆にその制度が確立しているからこそ表現の場がより明確になっているように思います。それは他の新制度のメディアと比べても、絵画が持つ特権とも言えるものかも知れません。しかし制度は社会の変化とともに刷新されていくものだとすると、制度化されている絵画は最近の新たな価値観を持つ社会においてはその存在を問われるようになってきました。だから最近の私は新たな新制度も厭わないという覚悟で絵画を捉え直そうとしてきたのです。そしてその成果はとりあえずは「流動の絵画」という新しい形式の絵画を見出すことになりましたが、そこにはこれまでの絵画が所持してきたほとんどの制度は維持されていて、私の中にあった絵画の芯といえるようなものが私のアート観と図らずも共振を果たしていたことを、改めて再認識することになりました。そしてその流動の絵画はそのすべてのものが制作過程の只中から突発してくることから、事前のイメージが必要な具象絵画と比べても、イメージの出所を未知のものにすることが可能となっています。このことは目的を持つことでしか始動できないAIなどと比べても、やはり絵画が持つ本来の力かも知れず、それは初出のイメージの出現を誘発する力を秘めていて、既存のもので拘束された世界からの解放につながっているとの実感を私の中に呼び起こすことにもなったのです。
以上がその文章なのですが、この文章の中でAIを持ち出して語っている箇所、目的に向かって志向する姿勢や発想を批判した表現になっているところがあります。現時点でのAIの登場がこれから先の社会構造そのものを変えようとする予兆に言いようのない違和感を覚えている昨今、それが私の絵画制作における創作思考と強烈にシンクロして、この箇所の文章に特別に反応することになりました。私の場合は自由ということを考えたとき、それが目的を持たないという単純な前提に帰結しただけなのですが、それをAIに当てはめてみるとなかなか興味深いことになってくるとどこかで気がついていたのだと思います。現在の社会の中でのAIの活用は、状況を予想したり、即応した解決策を提示したり、全てが事態の効率化を促進するものとしてイメージされています。それによって確かに目先の利便性が増大することは期待されて生活はますます享楽につながるものとなるでしょうが、しかし私が思う自由というイメージとはどうしても合致させることができず本質的な違和感は拭えません。もしもAIが目的志向を回避して新たな可能性を見せてくれるのであれば私にとっては非常に興味深いことにはなるはずなのですが、果たして今のAIを見ているとそれは可能なことのようには思えないのです。やはりAIはどこまでいっても電気羊の夢を見ることしかできなくて、本物の羊は手にすることができないのではないかというのが今のところの私の視点です。

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