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不正確なコミュニケーションは豊かさを孕んでいる

  • Masaru KUROSE
  • 3月9日
  • 読了時間: 3分

 一般的に今の社会が情報のやり取りの前提としているのは、送り手と受け手の間でその情報の質が変化しないこと、そしてできるだけ情報の中身を正確に同じものとして最終的に共有することです。そうしないと、共同でものごとを進めていくためにはお互いの認識のズレは致命的なことになるからでしょう。こうしたコミュニケーションの本質はものを傷をつけないで他の場所に正確に移動させること、言い方を変えればすなわち精度を求める運送作業なのだと言えるかもしれません。

 ひるがえって同じ視覚情報の交換を前提にする絵画を考えてみるとき、このような一般的な社会でのコミュニケーションとの対比の中では、この両者の間にはかなりの質的違いが浮かび上がってくるように思います。それは、絵画が求めるていのは果たして作者と他者との間での正確な中身の受け渡しだけなのかという懐疑で、少なくともアートが正確な情報の受け渡しだけに満足して絵画を扱おうとしているとは到底私には思えないからです。そこでのアートには実はもっと別な期待があって、それは作者と他者との間から発生してくる新しい何者か、要はこれまでよりさらに膨らみを持った「未知の何か」を期待するような、お互いの認識誤差を駆使してこそ獲得できるであろうさらなる増幅を期待する高揚感のようなもの。私自身を素直に考えてみても、絵画を制作する作家はどこかで自身の中で完結してしまった作品を正確な内容として他者にそのままの形で受け渡したいと本当に思っているのでしょうか。自身の考えがそれほどすんなりと他者に理解してもらえると思うほどに作家は安易な楽天家なのでしょうか。たぶんアートにとってその両者の間には必ず誤差は必須であることは織り込み済みに違いなく、そしてさらにそのことを前提として組み立てているからこそ、その制度の不正確さが生む余剰が、他者との違いとして結果的な独自性として作者の自負とどこかでつながってくるのではと希望を持っているところがあるかもしれません。ある意味ではそうした差異感こそがある種の前向きな余剰を生み、その余剰が新しい何かを生み出す未知なる可能性を孕む場所として、そうした期待を絵画のコミュニケーションは秘めているのではないでしょうか。自分の想像を超えた他者を相手にしてしまうという期待感、ある種の誤解までもが新しい可能性の地平につながるという前向きな相互コミュニケーション。絵画が持つ、いやアートが持つ独自の伝達方法の本質がここにあると私には思われます。だから、アートにおけるコミュニケーションを他の一般のコミュニケーションとどこかで同じものとして扱おうとすると、思わず陥ってしまう大きな落とし穴がここにあるように感じます。




 
 
 

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