top of page
検索

言葉と絵画とイメージと。

  • Masaru KUROSE
  • 2024年9月30日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年11月4日

言葉で説明できてしまうイメージ。

言葉によって誘発されるイメージ。

言葉を誘発するイメージ。

言葉の組み立てのように組み立てられたイメージ。

言葉の組み立てから結論を出したようなイメージ。

言葉によるイメージについてのイメージ像。

こうしたイメージを扱うには言葉が表現の中核を占めるメディアにお任せするのが得策のようで、絵画が持つイメージはこのような場所とは本来的に少し異質なものだと感じています。

 私はこうした言葉に頼らないイメージ感覚が思いのほか私の日常に多々あることを知っていて、普段からそうしたイメージを感知することの方が実感として多いとすら感じています。そうしたイメージの表現世界を作ろうとすることは私にとってはすこぶる自然なことだったので、私の作り出す表現世界が言葉によって規定しようとしても、いつもその意味に辿り着けずに抽象的に見えてしまうのかもしれません。しかしそれは言葉の世界から見ようとする結果だけのことであって、私の絵画の中では言葉による抽象という捉え方はそれ自体があまり存在感を持ち得ないようです。だから私の絵画は一般的に捉える抽象絵画ではないように感じています。

 ただしイメージを持つ絵画であることはやはり間違いがなくて、そのイメージは言葉が指し示すようなイメージではないはずで、ひょっとしたら一般的なイメージという言葉すらもおさまりどころを失って漂ってしまうような、それでもあえて言葉にしようとすると最終的には単に絵画としてしか呼ぶことができないものなのかもしれません。

 そうであったとしても私には絵画においてのイメージの存在はやはりあるように思えますから、ではそこにあるイメージとは私にとってどういったものなのか。たとえば美術の中でのイメージの存在はビジュアル的なものに結びつきやすいのが一般的ですが、それは扱っているのが視覚的なものが多いのでそうなるだけのことであるのだろうし、決して映像的なものに還元されてしまうわけではないように思います。逆に映像の世界にしてしまえばイメージの大事な部分を取り逃してしまう危険性すらあるとも思っていて、こうした考えなどが私の絵画におけるイメージに対する戸口になっているようです。そうしたものは再現性によりかかったすでにある既成感の延長のものに過ぎないだろうし、あるいはまた記憶体験の成果物として存在する中の一つとして映像的なものがあるに過ぎないだけだと考えているのです。

 では映像的なものに縛られないで捉えようとすればどのようなイメージ像が出現してくるのかと見れば、それは新たに志向性を持った何かが出現することだと見え始めてきます。さらにその志向の先に垣間見えそうなものの予兆を孕んだ総体と言えるような何かであるような気がしてきて、それはあくまでも予兆であってこれからの到来の期待でもあって(これは既存結果の参照物ではないのだから)、こうした予兆が濃密なほどそこにあるイメージと呼べるものはより豊かなものとなり得るはずのもののような気がしてくるのです。そしてそれらの多くは制作中の行為などのプロセスの中から出現してくるのは確かなようで、何も初めから事前に用意されてあるものの中からではないように感じていて、突如出現したそれを見て志向それ自体を志向している自分を発見するという実態が私のリアルなイメージ実感になるのだと思えるのです。

 そうした予兆の導きによって、結果新しい意味が出現することになるかも知れないし、新しい雰囲気の空間、さらには新しい気分のようなものが漂い出すのかも知れません。

それがまさしく私が絵画の中でイメージを持つという空間性なのだと思っています。



 
 
 

Comments


私にメッセージ / Communicate to me

​名 / Your name

あなたのメールアドレス 

Your mail address

あなたのメッセージを入力 / Enter your message

bottom of page